宗教新聞について

宗教新聞って?

創刊1975年。当初「週刊宗教」としてスタート。
1979年より故松下正寿氏を社主とし黛亨氏を編集長として、紙名を「宗教新聞」に改め再スタート。
社是は「精神革命の旗手」「宗教連合の具現」「地上天国の実現」。
2003年から前田外治が社主、編集長は多田則明。
「宗教の時代」と叫ばれたこの間、宗教界からの、そして宗教界への発信をめざす新聞です。

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「宗教新聞社」



平成18年4月5日
今まで見た桜の中で一番好きなのは「高遠の桜」。アルプスに囲まれた伊那谷の小さな城下町高遠の城址公園がタカトウコヒガンザクラで覆い尽くされる。赤みの濃いピンクの小花が一斉に咲き、丘全体を春霞のように包む。開花するとどっと人が押し寄せ、車で行くしかないので、交通規制が行われる。今年は四月九日の予想で、五月五日まで「さくら祭り」が行われる▼天地子は妻の実家があった駒ヶ根市に四年住んだので、毎年、バイクで出掛けた。車の脇をスイスイ抜けて走るので、渋滞を気にせず盛りの日を狙う。義母にその見事さを話すと、「あたしゃ、ここに嫁に来てからまだ一度も見たことがないに」とうらやましがられた。地元の人は案外そんなもの▼この高遠、長野県上伊那郡高遠町だったのが、平成の大合併で今年三月末から隣の長谷村とともに伊那市に編入され新伊那市高遠に。桜は、明治の廃藩置県で高遠城が取り壊された後の明治八年(一八七六)、城址公園を整備する際に、河南の小原地籍、桜馬場にあった桜を植樹したのが最初。今では、千五百本に及ぶ大木が辺りを埋め尽くしている▼徳川六代将軍家宣の時代、江戸城大奥に仕え権勢のあった絵島が、役者生島新五郎との恋を問われて高遠へ流され、屋敷の中で二十八年、独り淋しく生涯を過ごした。当時の見取り図を基に昭和四十二年、高遠湖畔に当時の屋敷が復元されている。規律に縛られた大奥女中と、華やかな人気役者の恋物語「絵島生島事件」は、江戸時代の大スキャンダルだった。あでやかなコヒガンザクラに絵島を重ね合わせ、追想するのも一興。


平成18年4月20日

 デリーからバスで四時間半、世界遺産のタージ・マハールとアグラ城を観光した。前者は、ムガール帝国五代皇帝シャー・ジャハーンが、三十八歳で亡くなった愛妃ムムターズ・マハールのために建てた霊廟で、タージ・マハールはその愛称▼彼女は十四人目の子供を陣中で出産した後、産褥熱にかかった。「私が死んだら、小さくてもいいから墓廟を造ってください」と言い残して。皇帝がデカン高原を平定したのはその二年後の一六三二年のこと。戦の間中、王は彼女のために壮大な霊廟を造ることを考え続けていた▼王はペルシャとトルコからイスラーム建築の専門家を招き、図面を描かせた。基調となる白大理石はイタリアから、そこに嵌(は)め込む貴石類は、国の内外から取り寄せた。大霊廟の前には広大な庭園と泉水を、三つの楼門と正面には赤砂岩で大門も造った。二万人の人夫が酷使され、完成したのは二十二年後、王六十二歳の時▼この間、ムガール帝国の国力は確実に傾く。その責任は王の浪費にありと考えた第四皇子アウラングゼーブは、王に従順な二人の兄を殺して皇位継承権を握り、王をアグラ城内のムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)に幽閉した。そこからは、鉄格子越しにヤムナ河をはさんだ右手に、タージ・マハールが遠望できる。シャー・ジャハーンは、日がな一日、愛妃が眠る白亜の大霊廟を眺める毎日を送ったという。八年後の一六六六年、王は七十四歳でこの世を去った▼帰りの車中、天地子が「私も三十八歳の時の妻になら、それぐらいしてもいい」と言うと、同行の女性に「六十歳で失礼しました」と叱られた。
お好みリンク・・http://paramirado.com/
       http://princeofpeacecob.com/
    
平成18年5月5日

 ニューデリーのホテルの庭で竹の子が出ているのを見て、急にわが家の竹の子のことが心配になった。東南アジアから東アジアにかけて、竹は大きな株から群生するように伸びている。日本の竹のように、地下茎を伸ばして、所々から芽を出すのとは違う。成長が早いのは同じで、竹博士と呼ばれた故上田弘一郎・京都大名誉教授は、竹を使って紙を製造することを構想していた▼竹やぶのある家で育った天地子の弁当には、春になると竹の子の煮物が入っていた。最初は柔らかいのだが、次第に硬くなっていったのを、懐かしい母の味とともに覚えている。そんなわけで、帰国すると大急ぎで竹やぶに出向いた。数本は一メートルほどに伸びていたが、食べごろなのもたくさん掘ることができた▼「間違っても皮をむいてから湯がかないこと」と料理番組で言われたのを守り、大きな鍋に湯を沸かし、皮ごと放り込む。ぬかは散らばらないように紙パックに入れてある。湯がき上がった竹の子を水でさまし、薄くスライスする。庭から取ってきたサンショウの葉をすり鉢で潰し、からし酢味噌で和えて食べると、口いっぱいに春の味覚が広がった。同時に、これまでの苦労を忘れてしまう▼年間を通していろいろな食材が買える便利さとともに、私たちは旬の味を多く失っているのではないか。その便利さは、さまざまな自然界の異変として、むしろ弊害が心配されている。多様な自然に囲まれ、その不便さを楽しむ心を持たなければ、豊かな自然を守ることはできないようだ。



平成18年5月20日

 先日、三十五年ぶりに山之辺の道を歩いた。天理から桜井まで、奈良盆地の東側の山すそにある、万葉の風が吹く道だ。犬養孝大阪大名誉教授が「采女の袖吹き返す飛鳥風都を遠みいたづらに吹く」を朗々と詠ったのを思い出しながら。当時に比べ、道がきれいに整備され、花がきれいに咲いているのに、大和の人たちの心遣いを感じる▼大神神社の北隣にある狭井神社では、石段の下で水色の袴の若い神官と、赤い袴の巫女が掃除をしていたのがいい風景だった。南隣の平等寺には聖徳太子のりりしい銅像が立っていた。聖徳太子が仏教に共鳴したのはその平等思想にある。それにふさわしい寺の名だと思う▼足を延ばして室生寺に行くと、シャクナゲがきょうで終わりという風情で迎えてくれた。大きな花弁は雨に弱い。よく持ちこたえてくれたと、その美しさを写真に収める。奥の院に息を切らせて登ると、野生の白いフジが元気だった。朽ちた色の屋根と花の白さが見事なコントラスト▼長谷寺のボタンも、多くは花を落とし、盛りの私を見てほしかったとつぶやいていた。こちらにはきれいなものだけを見るというアングルがある。同じように連れ合いを見れいれば、もっと大事にしてもらえるのに。しかし、先を急ぎたい天地子は、平気で置き去りにするという悪い癖が治らないから、一緒にお参りするのはよしたほうがいい。真言の修行の寺を訪れながら、つい人間臭いことを思ってしまうのはなぜだろう。



平成18年6月5日
 NHK大河ドラマ「功名が辻」五月二十八日の放送は「開運の馬」。千代が一豊のために、取っておいた化粧料の黄金十枚で名馬を買うという、ドラマ最高の逸話だった。化粧料とは妻の持参金のことで、離縁になると持ち帰る。戦国武将の妻は決して夫唱婦随ではなかった。ちなみに当時の一両は今の価格で約二十五万円。一豊は二百五十万円で名馬を得たことになり、その後の出世からすれば高い買い物ではない▼ドラマでは、不意に十両もの大金を差し出した千代に、一豊は激しく怒る。「そなたはいつも高みに立ってわしを見下ろしておる」と、日頃のうっ憤を爆発させた。金繰りに苦労しているのに、大金を隠していた妻が許せないというのだ。しかし、千代が「妻という役目で乱世をともに戦ってまいりとうございます」と訴え、さらに「私を情のこわい女などと……」と泣かれると、一豊は「わしが悪かった」と、すぐ謝ってしまう。さらには、千代の機嫌をとろうとまでする。どうして夫はいつも自分が悪いと思わされてしまうのか、わが身に重ね合わせて首をひねる男性も多いのでは▼大石静さんの脚本は、夫婦の在り方をテーマに、一豊と千代、信長と濃、光秀と煕子(ひろこ)という戦国武将の夫婦を絡ませている。濃が千代と一豊のやり取りを見て信長との仲を反省する、というのも面白い設定。自らを神仏だとする信長から心が離れ、光秀を「ただ一人心許せる方」と慕う濃。それを遮りながらも光秀は、心の奥で思いを募らせ、反逆の炎を燃え上がらせる。本能寺の変までに至る心理分析としてはありそうな話。良くも悪くも男は女によって運命を変えさせられるということか。


平成18年6月20日
 田植えが終わったこの時期、夕方になるとカエルの声がにぎやかだ。二十年ほど前、息子を連れて帰省した時には、驚くほどカエルがいなかった。「話が違うじゃないか」と怒る息子のため、村外れの小さなため池まで行って、やっとカエルを捕まえたものだ。その後、農薬の使用を控えるようになり、カエルも徐々にその数を回復した▼昔の米作りは草との闘いだった。炎天下での草突きが父母を苦しめた。除草剤が開発され、その苦労から解放されたが、一方、田んぼから多様な命が失われた。今では、天地子の辺りでは、除草剤の使用は田植え後の一回だけで、それも雑草の発生を抑えるだけの、ほかには毒性は少ないものになった▼もう少しすると、緑を深める田にシラサギが舞うようになる。若山牧水が「白鳥は哀しからずや」と詠ったのは海の風景だが、一面の緑の背景の方がコントラストがいい。農家に生まれ、父母の手伝いをしながら大きくなったのに、農家を継ぐことのできない自分を、そこに重ね合わせる。どの国でも農業で生計を立てるのは厳しい▼自治会の集会で農業法人化の議題が出された。農協職員の説明では、WTO(世界貿易機関)の決まりで、大規模経営にしないと政府の補助はなくなるという。グローバル化の影響は、むしろ田舎ほど深刻だ。中核になっているのは定年後の人たち。郷土の緑を守りたいという強い思いが、日本の農業を支えている。






平成18年7月5日

 西村惠信さんの『鈴木大拙の原風景』(大蔵出版)には、大拙とビアトリス夫人とのかかわりが書かれている。仏教に興味を持っていたビアトリス夫人は、釈宗演円覚寺管長の講演を聴きに来て、通訳をしていた大拙と出会う。きっかけは学問的なものであったが、夫人は米国女性らしい自然な感性を持っていたという。京都の家では猫を飼い、そのえさ代に困った大拙は、貴重な自家本を売ったりしている。また、鎌倉時代には、動物愛護のため慈悲園を運営していた。一方、大拙はそうしたことに全く関心がない。▼そんな大拙と夫人のことを秋月龍 氏は「ビアトリス夫人は、いろんな点で、先生と対蹠的な人柄であったと思われる。言ってみれば、先生の超脱枯淡に対して、煩悩具足の凡夫性をそなえていた。……先生にとって、ビアトリス夫人の豊かな凡夫性は、大衆を映す一つの鏡として、非常に貴重な存在であったろう」と書いている。▼夫人が大拙に宛てた手紙は、初期のころは甘い愛情に満ちたもの。二十代から三十代にかけ、十一年間米国で過ごしたころの大拙は、おしゃべりな米国女性にうんざりし、女性の機嫌を取らないといけない男性を気の毒がっている、古いタイプの日本男児だった。しかし、米国女性を愛してしまったことで、そんな自分を軽々と飛び越えてしまった。その飛躍がなければ、世界のD・T・スズキも生まれなかったのではないか。男性の成長にとっていかに女性が重要であるかが分かる。▼思えば天地子も、妻によってかなりつくり変えられた。教え子と結婚した高校の恩師が、「君たちはこの女性を変えようと思って結婚するだろうが、それは早日にあきらめたほうがいい」と言っていたのを思い出す。まあ、妻には妻の言い分もあろうが……。






平成18年7月20日
 先月、アジサイの咲く寺社をいくつか訪れた。日野市の高幡不動尊金剛寺、大和郡山市の矢田寺、京都市の平安神宮と藤森神社など。学生時代に行った奈良の浄瑠璃寺では、本堂の脇に咲いていたアジサイの青が印象的で、今もアジサイを見ると思い出す。▼アジサイの原産地は日本で、学名のHydrangeaは「水の容器」という意味。日本原産の最も古いものは青色だという。一般的なアジサイはセイヨウアジサイで、日本原産のガクアジサイの改良種である。一般に花と言われている部分は装飾花で、本来の花は中心部で小さく目立たない。花びらに見えるものは萼(がく)で、セイヨウアジサイではすべてが装飾花に変化している。▼「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」からきたとされる。「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花に名付けたもので、平安時代の学者源順がこの漢字を当てたことから誤って広まったといわれる。江戸時代、長崎にオランダ人と偽って渡来したドイツ人医師シーボルトはアジサイに惹かれ、アジサイ属十四種の植物図とその解読を発表した。その中で、特に花の大きい一品種を、愛人の名前「お滝」から「オタクサ」と名づけている。▼本紙七月五日号の「矢田寺のあじさいまつり」で「イワアジサイ」と書いたのは「イワガラミ」の間違い。本州・四国・九州、朝鮮に分布する木本性の落葉ツル植物。ツルアジサイとは生態的にも形態的にもよく似ているが、装飾花が一枚なので、花が咲いていれば間違うことはない。矢田寺ではその名の通り、岩にからんで白い花を咲かせていた。


平成18年8月5・20日
 相馬野馬追は神事と武士道の融合であると同時に、人と馬との物語だった。馬の産地・岩手県には、人と馬とが同じ屋根の下に暮らす南部曲り家がある。馬の祭りで有名な「チャグチャグ馬ッコ」は別名・蒼前(そうぜん)詣で、馬を飾り立てて岩手山麓の滝沢村にある蒼前神社にお参りする▼蒼前は相善(宗膳、勝善、相染)とも書かれ、馬の神様。昔、馬が好きになった姫様がいて、やがて相善宮と呼ばれるようになる。福島県には子眉嶺神社(別名、奥之相善宮)と呼ばれる神社があり、本社は延喜式名神大社である▼本紙に「モンゴル帝国の世界史」を連載中だが、モンゴルの強さも馬に負うところが大きい。そのモンゴルの民族楽器が馬頭琴。玄は馬のしっぽの毛を束ねたもので、やはり馬の毛を張った弓で引く。モンゴル語ではモリン・ホール(馬の楽器)と呼ばれる。この馬頭琴の誕生にまつわる民話が『スーホの白い馬』で日本の小学校二年生の国語の教科書でも紹介された▼スーホは貧しい羊飼いの少年。ある日、生まれたばかりの白い子馬を見つけ、大切に育てた。若者になったスーホと白い馬は、殿様が開いた競馬大会で優勝する。ところが、殿様は白い馬を取り上げてしまう。スーホの元に逃げ帰る白い馬。しかし、兵隊が放った矢が刺さってしまう。悲しむスーホに、自分の体で楽器を作るようにと伝え、白い馬は亡くなる▼昔、相馬では五反(五十アール)に付き馬一頭を飼うことが農民の義務だったという。これが関西だと牛になる。田を耕し、肥料を作り、子を産み、乳を出す馬や牛は農家の貴重な財産だった。人馬一体の技を堪能しながら、この国の人々の心の豊かさを思った。


平成18年9月5日
 八月初旬、住吉大社に行くため大阪・天王寺からチンチン電車の阪堺線に乗ろうとしたら、「与謝野晶子文学碑めぐり」のパンフレットが目に入った。参拝の後、堺まで足を延ばす。晶子は明治十一年(一八七八)、甲斐町にある和菓子の駿河屋に、三女として生まれた。少女時代から文学的才能に恵まれ、二十歳ごろには店番をしながら和歌を投稿していた▼妙国寺駅で降り、最初に訪れたのが本願寺堺別院。境内には親鸞と蓮如の立像が向かい合い立っている。歌碑には晶子の自筆で「劫初より作りいとなむ殿堂に われも黄金の釘ひとつ打つ」と刻まれていた。劫初(ごうしょ)とは仏教用語でこの世の初め。歌人の夫・鉄幹の父が西本願寺の院内僧だった関係で戦後、歌碑が建てられたという。堺を歩いて気がつくのは寺が多いことだ▼すぐ近くの覚応寺には、『みだれ髪』に収められた代表作「その子はたちくしにながるゝくろかみの おごりの春のうつくしきかな」の歌碑があった。少し歩くと、大阪府立泉陽高校の校庭には、晶子が日露戦争に出征した弟に贈った「君死にたまふことなかれ」の歌碑がある。この歌は反戦歌のように思われているが、純粋に弟の身を案じたもので、日露戦争に反対したわけではない。十一人の子を育て、反共・反ソの政治評論を書き、後には戦争鼓舞の歌を詠むなど晶子はむしろ「軍国の母」だった▼かなり離れた府立金岡高校には「金色のちいさき鳥のかたちして 銀杏ちるなり夕日の岡に」の歌碑がある。天地子が通った小学校には校庭にイチョウの巨木があり、教科書でその歌を見て、夕陽の中、イチョウの葉が舞い散る光景が浮かんだのを思い出した。



平成18年9月20日
 九月九日、京都御苑の東側にある梨木神社にお参りした。明治維新の功労者として知られる、三条実万(さねつむ)実美(さねとみ)父子を祀る神社で、実万が安政の大獄で剃髪して引退した後、三条家の旧邸に明治十八年に創建された。境内を覆うように咲く萩の花で有名なのだが、この日はまだちらりほらり。「萩まつり」は十六日なので、一週間早過ぎたようだ▼境内の清め水をポリ容器に何本も入れている婦人がいた。ここに湧き出る水は「染井の水」と呼ばれ、醒ヶ井、県井とともに京都三名水の一つとして知られ、その中で唯一現存しているもの。天地子が空のペットボトルを手に見ていると、「一本ならお先にどうぞ」と蛇口を譲ってくれた▼本殿にお参りし、東側の門を抜けると、紫式部ゆかりの慮山寺(ろさんじ)がある。ここにかつて紫式部の邸宅があり、『源氏物語』などを執筆したという。本堂前の「源氏の庭」は白砂が敷かれ、島を思わせる苔の緑に、紫式部にちなんでキキョウが植えられていた。こちらは少し遅過ぎたようで、紫の花はちらほら▼写真などでは、二月の節分に大師堂で行われる「鬼の法楽」のほうが記憶に残っている。赤・青・黒のぶくぶく衣裳を着けた鬼が踊り回り、その鬼めがけて紅白の豆ともちを投げ、悪霊退散を祈願するユーモラスな行事だ▼そこから南へ三分ほど歩くと、新島襄の旧宅がある。新島襄は明治八年、京都府顧問の山本覚馬の勧めで同志社英学校を設立、同志社の歴史がここに始まる。旧宅はその英学校があった場所。急に同志社出身の友達の顔が浮かんだので中に入ると、「入場は四時までなんやわ」とやんわり断られた。わずか十五分なのに。まあ、時にはこんな日もある。


平成18年10月5日

 九月下旬の週末、天地子の暮らす地域で、氏神様のお祭りがあった。田園地帯に島のように浮かぶなだらかな山のすそに、四十軒ほどの集落が広がり、小さな神社が山の上にある。朝七時半に各戸から人が集まり、社までの山道とお堂の内外を掃除する▼十時半に神主を迎え、お参り。この日、神主はいくつかの神社を回るので忙しい。三十人ほどがお祓(はら)いを受け、神妙にお参りする。田んぼの中にある八坂神社の末社で、牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていることから、お天王(てんの)さんと呼ばれる。もとはインドの祇園精舎の守護神で、日本に来て神素盞嗚尊(すさのおのみこと)と習合した。瀬戸内海に面し、古くから開けた土地なので、渡来文化の影響が強いのだろう▼お参りがすむと、お供えしていたお神酒とお撰米を頂き、甘酒が振る舞われる。以前は当番の家が作っていたが、最近では市販の缶。酒かすで作った水っぽい味で、酸味のあるどろどろした昔の甘酒が懐かしい。かつて農家で一番つらい作業は夏の草取りだった。それを終えて一段落し、秋の収穫前に祭りできずなを深め合ったのだろう。ひとしきりおしゃべりすると山を下り、集会所で昼のお膳を囲む。今年、わが家は班長なので、婦人たちに交じり妻が味噌汁と酢の物を作っている▼日本人の他界観は、亡くなると死霊から祖霊になり、さらに祖神から氏神へと高まり、故郷の山の高みから子孫の暮らしを見守っているというもの。それは、農業が機械化され、万事が合理的になった現代においても、人々の心に生き続けている。田舎は人付き合いのわずらわしさもあるが、そんな風土は大事にしていきたい。



平成18年10月20日
 九月に仙台に行った折、芭蕉が絶句した松島を見ようと足を延ばした。松島を見るならと、地元の友達に車で案内されたのが大高森(おおたかもり)。松島の対岸・宮戸島のほぼ中央にある小高い山で、山頂からは三六〇度の展望が楽しめる。荒々しい嵯峨渓と穏やかな松島湾が対照的で、観光船が白い糸を引いて走っていた。島々のそそり立つ崖は、岡倉天心がアトリエを構えた五浦海岸の風景に似て、海の青は、東山魁夷画伯が鑑真和上のため唐招提寺の襖に描いた青だと思った▼青龍山瑞巌寺は奥州随一の禅寺。天長五年(八二八)慈覚大師によって創建されたとされ、当初は天台宗だったが、後に臨済宗建長寺派になり、戦国末期に妙心寺派に変わる。そして、再建した伊達政宗の菩提寺となった。壮大な伽藍は慶長十四年(一六〇九)、政宗が桃山様式の粋を尽くして完成させたもの。寺院も権力者とのかかわりで栄枯盛衰する。修行僧が住んだという崖に掘られた岩窟が、中国の横穴住居を思わせ興味深かった▼仙台に戻り、政宗ら三代藩主が眠る霊廟・瑞鳳殿を訪ねた。参道の坂道の途中に廟所を守る瑞鳳寺があり、その脇から伊達六十二万石を表すという六十二段の石段が続く。深い杉木立の中に桃山様式の荘厳華麗な建物がたたずみ、極楽浄土を連想させる。二代忠宗の感仙殿と三代常宗善応殿は改装中だった▼時間が余ったので定禅寺通に行ってみる。中央分離帯がケヤキのトンネルになっていて、グレコの「夏の思い出」、クロチェッティの「水浴の女」などイタリア作家のブロンズ像三体が光のシャワーを浴びていた。美を愛する心は、今の仙台人にも受け継がれているようだ。


平成18年11月5日
 小沢一郎民主党代表は著書『小沢主義』で農業支援の「不足払い方式」を提唱している。農水省は大規模経営化を促す政策だが、零細兼業農家の多い日本では農業の衰退につながるからだ。現に、大規模化が難しい中山間地などでは、耕作放棄が目立っている。不足払いでは、市場価格が生産コストを下回る場合、それを国が補填する。もっとも、それがどれだけの予算を要するのか、弱い農業の温存にならないのかの説明まではない▼天地子の住む集落でも最近、農事組合法人が発足した。しかし、各地で設立が進む一方で、解散する法人も多い。わが法人の設立の動機は、大規模化しないと補助金がもらえなくなるからという後ろ向きなもの。そうする以外に農地を守る方法がないということで踏み切った▼法人になると経理が明確になるので、これまで納めていなかった税金も納めざるを得ない。説明会では、財務省の狙いに乗る必要はないとの反論もあった。農協の担当者はWTO(世界貿易機関)から説明し、日本の農業の現状を訴える。田舎に暮らしても、世界を肌身に感じる▼グローバル化は止められないが、その被害をいかに少なくするかで今の政治は動いているようだ。格差社会をめぐる議論もその一つ。与野党の違いは、わずかな程度の差にしか思えない▼法人になると、地主は自分で農地の管理をしないといけない。天地子も、これまでは耕作者に任せっきりだったのが、あぜの草刈りなどに汗を流すことになる。自分が元気なうちはできるだろうが、子供の代にはどうなるか分からない。せめて体力を温存して、この国と地域の行く末を見守りたいものだ。



平成18年11月20日

 十一月十一日から始まったNHKの土曜ドラマ『ウォーカーズ 迷える大人たち』(四回連続)の舞台は四国。二十代から六十代までの九人が、それぞれの事情を抱え四国八十八カ所を巡る。三十代半ばの主人公は、携帯電話メーカーの開発部のエース(江口洋介)で、三週間の夏休みを取り、十五年ぶりに故郷の徳島に帰って来る。実家の寺を継ぐのを断り、断絶状態だった父が、がんで余命半年だと母から知らされる。母は、息子が僧になるのを決め、婚約者(戸田菜穂)を連れて帰ると夫にうそを言う。喜んだ父は、それなら霊場巡りをしろと命じた▼ドラマ第一回の副題は「発心」。始まりの徳島が「発心の道場」だから。以後、高知は「修行」、愛媛は「菩提」、香川は「涅槃」の道場とされる。予告だと、道の険しい高知で、それぞれの問題が明らかになりそうだ。自分をさらにしたいという若者。子供の問題に悩む中年夫婦。話のすれ違う熟年夫婦には離婚の危機がありそう。二百回以上回ったという先達も何か怪しい▼ライターの仕事をやめたくなく、結婚を考え直すと言って東京に帰った婚約者が、十二番目の寺に巡礼姿で現れる。彼女は何を考えたのか。主人公はどうするのか。登場人物に自分の事情を重ね合わせながら、一緒に遍路をしている気分になれる▼全行程千四百キロの遍路は歩き修行。肉体の苦痛を通り抜けると、少しずつ雑念がそぎ落とされ、本当の自分が見えてくる。主人公の恋人役の戸田さんは、最後に結願の大窪寺にたどり着き、一緒に歩いてきた金剛杖を洗ってお返ししたとき、「風呂から上がったときのような爽快感を味わった」と語っていた。今、お遍路さんは年間約十五万人。来年はもっと増えそうだ。


平成18年12月5日
 長野県駒ヶ根市にある光前寺は、八六〇年創建という古さから天台宗別格本山。開祖は本聖上人で、比叡山で修行の後、木曽駒ヶ岳から流れ出す太田切黒川の瀑の中より不動明王の像を授かり、寺を開いたという。以来、武田・羽柴家の保護を受け、徳川家からは六十石の寺領と十万石の大名格を与えられた▼この寺に不思議な伝説がある。昔、寺に早太郎という強い山犬が飼われていた。その頃、遠州見付村(今の静岡県磐田市)では、神が田畑を荒らさないよう、毎年祭りの日に白羽の矢が立った家の娘を、いけにえにささげる習わしがあった。ある年、旅の僧が神の正体を見届けようと様子をうかがっていると怪物が現れ、「信州の早太郎おるまいな、早太郎には知られるな」と言いながら娘をさらっていった。僧は信州へ向かい、光前寺の早太郎を見つけ、借りて村に引き返す。次の祭りの日、娘の身代りとなった早太郎は怪物と闘い、傷つきながらも退治した。見ると巨大な老ヒヒ。その後、早太郎は光前寺に帰り着くと、一声高くほえ、息を引きとった▼旅の僧は、供養にと「大般若経」を写経し、寺に奉納した。この経本は寺宝として大切に残され、境内には早太郎の銅像と墓がある。今年は零犬早太郎伝説が生まれて七百年に当たり、写本が特別御開帳されていた▼そんなゆかりから、駒ヶ根市は磐田市と友好都市の関係にあり、Jリーグ・ジュビロ磐田のサポーターも多い。市内には早太郎温泉があり、早太郎まんじゅうが売られている。雪を頂いた中央アルプスのすそに紅葉が広がる、美しい町の、きれいな伝説だ。



平成18年12月20日

 那智勝浦から新宮をめぐる熊野古道を歩いた。JR紀勢本線那智駅の近くにある補陀洛(ふだらく)山寺は、補陀洛渡海の僧を出した寺として知られる。南の洋上にある浄土を目指し小舟を漕ぎ出す信仰で、九世紀から十八世紀にかけて同寺からは二十五回試みられた。井上靖の小説に『補陀洛渡海記』がある▼バスで大門坂へ。樹齢八百年の夫婦杉から始まる石段が熊野古道大門坂で、息を切らせながら登った。うっそうとした杉林の中を曲がった石段が続き、まさに古道という感じ。途中、森の切れ目から見えた那智の滝は息を呑む美しさ。昔の貴人らもこの風景に心打たれたのだろう。坂の前で買った一袋百円のミカンでのどを潤す▼那智山の中腹に鎮座する熊野那智大社は、熊野三山の一つで、熊野十二所権現を祀る。温暖の地ゆえ山は紅葉が盛りだが、社殿脇にはイノシシの絵が飾られ、新年の準備が整っていた。平日なのに参拝客が絶えない▼隣接して青岸渡寺(せいがんとじ)がある。明治の神仏分離以前は「那智の如意輪堂」と呼ばれ、熊野那智大社と一体の寺院として発展したという。この境内から、那智の滝が三重塔と並んで見晴らせる。参拝者に頼まれシャッターを切った▼坂道と石段を降ると、次第に滝の音が近づいてくる。やがて目の前に現れたのは、那智の滝を御神体とする飛瀧神社。滝の前に石の鳥居が立っている。日本人の信仰の原風景を見た感じで、しばし呆然とする▼バスで那智駅へ。列車がないので別のバスで新宮に行き、熊野速玉(はやたま)大社にお参り。熊野川河口近くに鎮座し、全国熊野神社の総社とのこと。JRで紀伊勝浦に戻り、勝浦温泉で疲れを癒やす。贅沢な旅だった。

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平成19年2月5日
 クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』がゴールデングローブ賞最優秀外国語映画賞を獲得した。『十七歳の硫黄島』(文春新書)を書いた秋草鶴次さんは、十五歳で志願兵になり、海軍通信学校で学んだ後、昭和十九年、十七歳で硫黄島へ渡る。硫黄島で戦った日本兵二万千人余のうち生還したのは千二十三人。秋草さんはその一人だ▼米軍の上陸開始は二十年二月十六日。三月二十六日の総攻撃で栗林忠道中将は戦死し、島は米軍の手に落ちたが、地下壕には数千人が生き延びていた。無意識で倒れていた著者が米軍に収容されたのは五月十七日ころ。以来六十一年、「死んだ仲間たちに報いたい」と記憶を書きつづってきた。二月二十三日に摺鉢山に星条旗が掲げられた後も、二度日本軍が奪還し、日章旗を掲げている。二度目の旗は血染めの手製に見え、「拝む思いで眺めていた」という▼秋草さんが生き延びられた一つは、通信員のため過酷な地下壕掘りをしなくてすんだこと。それでも何度も死にそうになり、砲撃で右手の指を失っている。米軍はブルドーザーで壕をつぶし、日本兵がいそうな壕には石油を流し込み、火を放つ。捕虜になった日本兵が拡声器で投降を呼び掛けると、壕の中で言い争いが起こった。著者も自決用の手榴弾を渡されていたが、最後まで生きて戦争を見極めてやろうと思う。それは肉体的にも精神的にも人間の?耐久試験?だったと述懐している▼死の誘惑から著者を支えたのは親友と仲間、そして家族や故郷の人たちへの思いだ。意識が混濁する中、見えてきたのは対岸に草花がいっぱい咲いている川。その川を渡り、楽園の奥に分け入った秋草さんは文殊菩薩と名乗る人に出会い、「もうお帰りなさい」と言われ戻って来たという。



平成19年2月20日

 インド旅行のこぼれ話。ラジギールからベナレスへ、乗用車に一人で八時間のドライブの途中、立ち寄ったひなびた飯屋で、バス旅行の日本人一行に出会った。香川県の善通寺が創建千二百年を記念して募集した仏跡めぐりで、引率の真言宗善通寺派宗務総長はさぬき市志度にある常楽寺の住職。何と天地子と同じ市の人だった。「地元で会わずにインドで会うのは、これも仏縁ですかな」と笑った▼ベナレスのホテルで会った妙齢の婦人は、昨年、九十一歳で父を見送り、遺灰をガンジスに流すためにきたという。京都に住んでいるというので、学生時代の思い出を話していると、何とその人は恩師の娘だった。そう言えば、確かに恩師の面影が浮かんでいる。「これも父のお導きかしら」とほほ笑まれ、どこかで道を踏み外した不肖の弟子であることを恥じていた▼二月には稀な大雨でヒンドゥー大会の開会式が一日延び、帰国を二日ずらすことにした。変更を頼んだタイ航空の現地主任が同じホテルに住んでいたので、仲良しに。ベナレス空港でチェックインを済ませ出発を待っていると、かの主任が搭乗券をよこせと言う。やや不安な思いでいると、ビジネスクラスが空いているからと変えてくれたのだ。おかげでバンコクまでのフライトは快適そのもの。旅は道連れ世は情け、見知らぬ人にも声を掛けるものだと思った。




平成19年3月5日

 二月五日から十四日のインド旅行を、頭がまだ引きずっている。ベナレス市内で一番目立ったのは携帯電話の広告だ。数社が大きな看板や道路沿いのステッカーで宣伝していた。ヒンドゥー教徒の集まりでも、マナーモードにする習慣がないのか、あるいはそもそも機能が付いていないのか、スピーチのさなかにいろいろな着メロが聞こえてきた▼帰国して日本の格差社会の議論を聞くと、ついインドと比べてしまう。そこには絶望的な格差があった。自動車から航空機まで製造する財閥企業が、成長分野の携帯にも乗り込み、所得に比べて安くはない携帯を買う人たちからお金を吸い上げる。一方で、そんなものには無縁の人たちが、古代と変わらないような生活を送っている。早朝の道端で、いつものように洗濯する女性がいた。カースト制度は世襲の職業ともつながっている▼ガンジス河で沐浴する人たちを見ると、「人間には体と頭と心、そして魂がある」と語るヒンドゥー組織幹部の話が説得力を持つ。魂をどうするかが最大の問題なのだが、その横で「魚を買って放生しろ」と舟を寄せてくる男たちがいる。「ベナレスは宗教と歓楽の町」というインド人の言葉に納得し、門前には色街が欠かせなかった歴史を思う▼もっとも体の方は、インド帰りの天地子に「今夜はカレーにするね」と無邪気に言った妻のおかげで、すぐにインド離れした。



平成19年3月20日

 旧正月の二日(二月十九日)、雑技団の曲芸などでにぎわう横浜中華街を歩いていると、歩道の一角に「日本国新聞発祥之地」という石碑が立っていた。新聞人の一人として見逃せない。碑文によると、この地は一八六四年にジョセフ彦が「海外新聞」を発刊した居館の跡。彼は米国の民主政治が新聞の力に負うところ大なることを知り、日本最初の新聞を創刊したという▼ジョセフ彦こと浜田彦蔵の生涯は吉村昭著『アメリカ彦蔵』(新潮文庫)に詳しい。彼は十三歳の時に乗った船が嵐で遭難、仲間十六人と漂流しているところを米国の商船に救われた。日本は鎖国のため米国船の来航を許さず、彼らはそのままサンフランシスコへ。その後、中国のマカオに送られてペリーの船で帰国を図ろうとしたが断念。彼は米国で生きる決意をする▼サンフランシスコで働きだした彼を引き取ったのが税関長。働き者で頭のいい彦蔵をわが子のようにかわいがり、学校にも通わせる。そして彦蔵を伴って汽車でワシントンに行き、大統領に謁見させた。熱心なカトリック信徒の夫人は、彦蔵に洗礼を勧め、彼はジョセフという洗礼名を受ける▼日本が開国したことで帰国の道が開けるが、まだキリシタン禁令があったため彦蔵は米国籍を取得、米国人として日本の土を踏む。時代に翻弄されながら、知恵と努力で生き抜いた彦蔵の生涯が面白い。また同書は、海外で生きていた多くの漂流日本人のことを、丹念に描いている。



平成19年4月5日

 今年は桜の開花が早い。三月三十一日、春日大社の南門を飾る枝垂れ桜がちょうど満開だった。鮮やかな朱色の門に赤みがかった桜がよく映える。そこから下って、奈良で一番早く咲くことで知られている氷室神社の枝垂れ桜も満開。たくさんのカメラマンが押しかけていた。境内の拝殿では尺八や子供神楽の観桜奉納芸能の真っ最中▼翌四月一日は斑鳩の里歩き。法隆寺大講堂の両脇に赤みの薄い桜と濃い桜が、どちらも満開。夢殿の枝垂れ桜は色白で、緑のコケに包まれた幹とのコントラストが美しい。中宮寺で四十年ぶりに弥勒菩薩さまに再会。お住まいはコンクリート製の本堂に変わっていたが、昔と変わらないほほ笑みで迎えてくれた。物思いにふける半跏思惟のポーズで知られる。同じく聖徳太子ゆかりの法輪寺では三重塔を包むように桜が満開、法起寺は若い小ぶりの桜がしっかり花をつけていた▼近鉄線で西の京に戻り、薬師寺に参拝。ちょうど花会式(はなえしき)で金堂前の舞台で舞楽が奉納されていた。西塔の脇にある桜が満開。西大寺は本堂脇の桜が満開だった▼夜は京都。木屋町通を三条から下ると、高瀬川沿いに桜が満開。仏光寺通から松原通までライトアップされ、水がきらめく幽玄の世界をそぞろ歩き。欲を出して二条城にも行ったが、こちらは少し早すぎた。三条を上がると寒いのかもしれない。


平成19年4月20日

 五日、雨上がりの快晴に誘われ、東京・千代田区の九段下から新宿まで桜を見ながら歩いた。千鳥ケ淵はぼちぼち散り始めていたが、さすがに見事な眺め。水面に桜の花びらが漂うのも風情があり、やはり桜には水がよく似合うと思った。ところどころ、菜の花のような黄色い花と、何だか分からないが紫の花が群がって咲いているのも面白い▼東京の桜前線の基準になるソメイヨシノがある靖国神社は大方散っていたが、前夜の雨で地面一面の桜の花のじゅうたんがきれいだった。大事に思ってか、だれも足を踏み入れていないのがうれしい▼JR飯田橋駅から四ツ谷駅までの沿線の外濠公園も桜の名所。四ツ谷まではほぼ散っていたが、上智大学沿いの土手の上はまだ八割がた残っていた。聖イグナチオ教会に集まる外国人も日本の桜を楽しんでいることだろう▼少し歩いて新宿御苑は今が盛りというか、まだかなり大丈夫なよう、開花時期をずらして植えられているようだ。NTTドコモ代々木ビル(通称ドコモタワー)はニューヨークの摩天楼を思わせるデザイン。桜越しに見上げるとセントラル・パークにいる気分になる。同苑は高遠城主内藤氏の下屋敷跡で、この辺りはかつて内藤新宿と呼ばれていた。感心したのは薄黄色のボタンザクラ。そのうち水色の桜ができるかもしれないが、やはり日本の桜は桜色であってほしい。

平成19年5月5日

 四月二十一日、飛鳥の里を回った。近鉄飛鳥駅に着いたのは朝の十時。駅前の店で自転車を借り、高松塚古墳へ。壁画館で原寸大の壁画のレプリカを見ると、発見された当時の興奮を思い出した。次に仏教を受け入れた欽明天皇陵へ。隣の吉備姫王墓には猿石と呼ばれる石像が四体ある。韓国でも似たような石像を見たことがあった▼国営飛鳥歴史公園になっている甘樫丘を左に見てしばらく走ると、飛鳥寺に着いた。蘇我馬子により推古天皇四年(五九六)に創建された日本初の寺で、蘇我氏の氏寺。本尊の飛鳥大仏は元は釈迦三尊の中央部。推古天皇十七年(六〇九)の造立で、東大寺の大仏より百五十年も古い。その顔はやや面長で大陸系。百済の仏師・鞍作鳥の作とされ、蘇我氏が渡来系の技師を動員して広大な伽藍の飛鳥寺を建てたことが分かる▼国立飛鳥資料館では発掘された山田寺の東回廊の再現が見事だった。初期の仏教寺院は、インドのヒンズー寺院のように大きな回廊を持ち、人々はそこを巡りながら祈っていたのだろう。庭園には亀石や人面石などの石像が配され、古代飛鳥の風景を偲ばせていた▼岡寺の境内にはシャクナゲが満開で、まるで室生寺のよう。寺の門前町は店が立ち並び、犬養万葉記念館がある。馬子の墓とされる石舞台古墳には、桜が散った後、キクモモがピンクの花を咲かせていた。渡来文化と融合しながら日本の王権が成立していった飛鳥は、春の光に満ちていた。




平成19年5月20日

 詩人の武鹿(ぶしか)悦子さん作詞の童謡「うぐいす」に「うぐいすのこえすきとおる うちゅうがいっしゅん しんとする」というくだりがある。木下牧子さんの曲も、ウグイスの鳴き声のような伴奏があってきれいだ。今の季節、歌い方を覚えたウグイスたちが、自慢の鳴き声を響かせてくれる。それを「宇宙が一瞬、しんとする」と感じるのが詩人の感性。宇宙も静まり返るほどの響きを感じたのだろう▼全国で田植えが始まるこの季節、天地子の家の周りの田んぼも、一枚一枚と早苗の田が広がっていく。その隣では麦が風に揺れながら、熟成を待っている。これから六月にかけて、農家の人たちは天候が気にかかる。雨が長引くと麦刈りが遅れ、田植えが先延ばしされるからだ。裏作に麦を、休耕田に大豆をというのが農水省の振興策。補助金で何とか採算を維持し、郷土の緑を守る心意気で励んでいる▼五月中旬の日曜日には自治会総出で水路掃除をするのが年中行事。田んぼの水はパイプ配管になっているのだが、梅雨の季節を控え、水路は昔通りみんなで大切に整備している。一年間に溜まった土砂を伸びた草ごと岸に引き上げるのは、かなりの重労働。久しぶりの肉体労働に体が悲鳴を上げかけたころ、里山からウグイスの澄んだ声が聞こえてきた。すると合唱で習ったあの曲が頭に浮かんできて、いつしか疲れを忘れていた。歌には不思議な力がある。

平成19年6月5日
 田植え機で植えられた苗は一株二、三本から四、五本だが、しっかり根付くと「分けつ(枝分かれ)」が始まり茎が増えていく。しかし、放置しておくと穂にならない茎が出るため、二十本くらいで「中干し」する。一週間ほど水を抜いて土を乾かし、地中の余分なガスを抜いて新鮮な空気を土の中に呼び込む。中干しはイネの根を健康にするとともに、分けつを抑える働きがある▼東南アジアの湿地帯が原産地とされる稲は、葉から取り入れた酸素を根にまで行きわたらせることができるので、水に浸かったままでも穂を実らせる。ところが乾燥地が原産の麦は、根から酸素を取り入れないと枯れてしまう。風土に合わせて植物は最適の生育戦略を取ってきたことが分かる▼この時期、黄色く色づき始めた麦畑の上ではヒバリが鳴き続け、田植えの終わった水田には気の早いツバメが舞い、ゴイサギがえさを探す。水の中では小さなオタマジャクシが無数に動き、里山ではウグイスが優雅な声を響かせている。その里山では青葉が萌え上がり、まさに命の爆発を思わせる季節だ▼人間をはじめ動物は動いてえさを取るが、植物はじっとしていながら光合成で自ら栄養を作り出す。この全く違った生存戦略をした植物と動物が今、地球上に繁栄している。動物である人間はもっと植物のことをよく知り、その知恵に学ぶ必要がありそうだ。



平成19年6月20日

 百一歳の 地三郎さんが今一番力を入れているのが三歳児教育。教育者に医師らも入った三歳児教育学会を設立し、研究・実践活動を展開している。三歳が重要なのは、それまでに脳細胞のネットワークがほぼ出来上がるから▼人は二千億個以上の脳細胞を持って生まれるが、三歳までに膨大な数の脳細胞を捨ててしまう。もったいないようだが、捨てることでできた隙間に、脳細胞同士を結ぶケーブルが張り巡らされるからだ。脳細胞はいろいろな機能を分担しているが、単独では高度な作業ができない。互いに結び合わされることで、人間的な思考や行動をスムーズに行えるようになるという。ネットワークが肝心なのだ。脳細胞を取捨選択する基準が、三歳までの環境、刺激。例えば、三歳までに大声で笑うチャンスのなかった子は、笑顔を作る細胞が捨てられてしまう。?地さんは、三歳児教育は「ヒトを人間にする教育だ」と言う▼実践の一つが「手作りおもちゃ 親子愛情教室」。会話しながら、手先を動かして、物を作るという人間として必要な要素がそろっているからだ。牛乳パックやトイレットペーパーの芯、空き缶、ペットボトルなどを使って、親子で相談しながら、自動車や電話機、楽器、風車などを作る。子供たちは、買ったおもちゃで遊ぶ時より生き生きしているという。三歳児にまつわる言い伝えが、決して神話でないことが分かる。



平成19年7月5日
 岡山県赤磐市の石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社には、素盞嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を斬った「十握剣(とつかのつるぎ)」を祀ったと伝えられ、日本書紀にも数カ所そう記されている。布都(フツ)は物を斬るときの擬音で、布都魂とは長剣を意味する十握剣のこと。同神社の御神体は今は素盞嗚尊だが、明治以前はその剣だったという▼十握剣は、崇神天皇の時代に大和の石上神宮(天理市)へ移されたとされ、同神宮の社伝にもそうある。同神宮は武器を管理する物部氏の神社。石上氏も物部氏である。明治七年に同神宮の大宮司が禁断の地を発掘したところ、全長八五センチの錆びた鉄剣が出てきた。なたのように内反りの剣で、直刀より古い形だという▼石上布都魂神社の物部忠三郎宮司は十代目で、備前岡山藩主の池田綱政が寛文九年(一六六九)に社殿を再建し、宮守りしていた祖先に物部姓を名乗るよう命じたという。近くにはたたら製鉄の跡もあり、大工の建部やとび職の軽部など職業集団を意味する部の付く地名も多い▼十握剣は「韓鋤(からさひ)の剣」とも呼ばれ、半島とのつながりをうかがわせる。吉備路には大和のように多くの前方後円墳があり、大和や出雲と並ぶ吉備王国の存在を強く印象付けられた旅だった。

平成19年7月20日
 二〇一一年の地上デジタル放送完全移行に向け計画されてきた第二東京タワーが墨田区に建設される。予定地は、言問通り、押上通り、東武鉄道伊勢崎線、北十間川に囲まれた区域。さいたま市や足立区、豊島区、練馬区、台東区の中から今年三月、同地域が選ばれた▼そこで注目されているのが北十間川の活用だ。江東区亀戸付近で旧中川と分かれ、西へ伸びて墨田区向島付近で隅田川とつながる。江戸初期に運河として開削され、川幅が十間(約一八・二メートル)で本所(墨田区南部の商工業地区)の北を流れることからそう呼ばれた▼水の都の復活を目指す市民からは、新タワーとディズニーランドを結ぶ観光船や下町の河川の回遊船の構想が持ち上がっている。ところが、隅田川の水位が北十間川より三?五メートルも高いため難しいという。イギリスには運河の水位差を水門で乗り越えながら渡って行く船旅もあるので、何とか工夫してほしい▼いずれにせよ、足元の北十間川や隅田川を背景に、六百メートルのタワーがそびえる風景は新しい東京名物となるだろう。東京タワーよりも高い三百五十メートルの展望ロビーや四百五十メートルの特別展望ロビーからは富士山のほぼ全景が見渡せる。それは江戸時代の人々が見ていた風景で、現代技術が昔の風景を取り戻すことになる。


平成19年8月5・20日

 四日早朝、醍醐寺が開く九時までにと、上醍醐寺に登った。急な石段と坂道を一時間、汗が噴き出してくる。一緒に登る人は高齢者のそれも女性が多い。真言宗の寺はどこも深い山の中かふもと。女性たちは息を切らせて登りながらもおしゃべりする。聞いているとどうでもいいような話なのだが、それがまた元気の素なのだろう。安倍首相のように、手をつないで降りてきた中年夫婦もいた▼同寺は西国三十三カ所霊場中最大の難所とされる。途中で道が下り始めたので不安になって後ろの人を待つ。「ここが頂上ですか」と聞くと、まだ先があると指差す方を見れば、朝霧の向こうに伽藍の屋根があった▼目指す上醍醐寺には白装束のお遍路さんが集まっていた。聞くと、久留米からバスと船を乗り継いで来たという。「おはようございます」と言うと、「こんにちは」と応えて、「朝早くから登っているので、もうお昼かと思った」と。時計を見ると八時半▼同日夕方、比叡山の集まりを終え、ケーブルで坂本に降りようとしたら道を間違え、間一髪で最終便に乗り遅れた。仕方なく歩いて下山。学生時代に八瀬から登ったことはあるが、坂本側は初めて。軽率を嘆きながら、これも何かの縁かと日明かりの残る山道を急ぐ。登り十分だった四キロの道を三十五分で駆け下り、坂本駅で予定の京阪電車に。朝夕二回汗に濡れ、命の洗濯ができた。


平成19年9月5日

 この夏、金子みすゞの「夕顔」という小さな詩に出会った。「せみもなかない/くれがたに、/ひとつ、ひとつ、/ただひとつ、/キリリ、キリリと/ねじをとく、
/みどりのつぼみ/ただひとつ。/おお、神さまはいま/このなかに。」▼神は細部に宿るというが、それをみすゞは見事に表現している。これは、日本人の感性でもあろう。だから、小さな命を大切にしてきた。大きなことを論じるよりも、小さなことを大事にしたいと思う▼ちなみに、朝顔と夕顔は植物学的には別種。朝顔はひるがお科の一年生のつる草で、夕顔はうり科の一年生つる草。原産地はインド・アフリカで、初夏の夕方、葉の脇に白い花を開き、朝にはしぼむ。果実は直径七十センチほどの長円形になり、それを削ったのがかんぴょう▼わが家の垣根には宿根性アサガオが繁茂している。これはサツマイモ属のつる性多年草で琉球アサガオとも呼ばれ、外国から導入されたもの。六月から九月ころまで青紫の花を咲かせるが、種はできない。茎を伸ばして根を下ろし、越冬して春に芽を出す▼みすゞの詩に出会ったのは、木下牧子さん作曲の「夕顔」を合唱で練習したから。管弦楽の作曲家だが、合唱にもいい曲を書いている。なごやかに歌い始め、「おお、神さまはいま」で頂点を迎え、静かにまとめる。今年の夏の思い出だ。



平成19年9月20日

 兵庫県姫路市の郊外にある書写山圓教寺は天台宗別格本山で「西の比叡山」と呼ばれる。標高三百七十一メートルの書写山の山上一帯に伽藍が散在し、摩尼殿は清水寺を思わせる舞台が山の斜面にせり出して、見事な眺めだった▼奈良時代末から山岳信仰の道場として知られていた書写山に、比叡山を出て九州での修行を終えた性空(しょうくう)上人が康保三年(九六六)に入山し、小さな草庵を結んだのが同寺の創建とされる。やがて性空上人の名声は都にも届くようになり、播磨国司が法華三昧堂を寄進、寛和二年(九八六)には花山法皇が参詣した。上人に深く帰依した法皇により、「圓教寺」の寺号を受け、勅願寺の待遇が与えられた。翌永延元年(九八七)には講堂が完成し、比叡山から高僧を招いて盛大な落慶法要が営まれ、「西の比叡山」が誕生する▼その後、圓教寺は戦乱に巻き込まれる。承安四年(一一七四)には後白河法皇が参籠して平家滅亡を祈念し、元弘元年(一三三一)には隠岐を抜け出した後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒ののろしを上げている。戦国時代の天正六年(一五七八)には播磨攻めの羽柴秀吉に占領され、二年近く軍事拠点として使われた▼書写山が祈りの山に戻るのは江戸時代になってから。諸堂も本来の荘厳さを取り戻し、西国三十三カ所巡礼の二十七番札所として賑わう。最近では、映画「ラスト・サムライ」のロケに使われた。


平成19年10月5日
 大津市での神社本庁教誨師研究会を取材した折、錦織にある大津宮遺跡を訪ねた。既に住宅が密集しているので、公園などに遺跡は点在している。七世紀後半、天智天皇はなぜこの地に都を営んだのだろうか▼六六〇年、百済が新羅と唐に攻められて亡ぶが、同盟国の倭国(日本)は百済復興を支援しようと出兵した。それを指揮したのが中大兄皇子である。しかし六六三年、白村江の戦いで倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった▼国外に脅威を抱えた倭は、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の山城を築き、大宰府には水城を築いて防備を固めた。そして六六七年、中大兄皇子は都を近江大津へ移し、翌六六八年、即位して天智天皇となる▼大津遷都の理由は、?抵抗勢力の多い飛鳥から遠い?陸上・湖上交通に便利?外国軍が畿内から攻め上ってきても逃げやすい??との諸説がある。さらに、湖西から大津北端に至る地域には先進技術を持った百済系渡来人が多く居住しており、その経済力を頼ったという説もある▼一般に三井寺と呼ばれる天台宗の園城寺を創建した大友氏も、『新撰姓氏録』には「百済国の人」と記されている。園城寺北院の一角に足利尊氏が寄進した国宝・新羅善神堂があった。唐から帰国の船旅で暴風に遭った円珍に新羅明神を名乗る老人が現れ、「私を祀るなら仏法を守護しよう」と言って嵐を静めたという。東アジア古代史を背景に、謎はロマンに通じる。



平成19年10月20日
秋晴れの休日、わが家の近くの田んぼで「香川の酒さぬきよいまい」収穫体験・交流会が行われた。参加したのは香川初の酒米「さぬきよいまい」のオーナーや酒米を開発した香川大学教授と学生、酒造組合や農家の人たち約六十人。たわわに実ったイネをかまで刈り取った▼稲刈りが初めての人には、地元の農家の人たちが手本を示す。もっともコンバインでの刈り取りが普通の今では、かまを使うのは田んぼのすま刈りくらい。年配者は昔を思い出しながら、楽しそうに教えていた▼酒米の開発が始まったのは平成二年のこと。「オオセト」と高級品種の「山田錦」を交配させて得た千種の中から、十二年かけて平成十五年に選び出された。オオセトに比べて米粒が大きく、たんぱく質が少ないのが特徴で、米粒が大きいとこうじ菌が働きやすく、たんぱく質が多いと酒が変色しやすいという。同米が原料の酒はまろやかで味にふくらみがあると評判で、今年は地元の酒造会社五社が醸造する▼会費五千円の同米オーナーは、酒米の収穫から精米、醸造までの作業を体験し、来年三月に新酒三本を受け取る▼この日、収穫された酒米は、低温除湿乾燥方式で処理された後、もみすり。その後、酒造会社で50%に精米され、十二月に仕込みが行われる。ビールや焼酎に押されて消費が低迷の日本酒。新しい酒米による新酒で人気回復を目指している。


平成19年11月5日

 秋晴れの十月二十一日、香川県小豆島のオリーブ公園でオリーブ収穫を体験した。生食用に熟したオリーブの実を小さな袋いっぱいに摘み取ると、塩漬けのオリーブ一袋がもらえる。家族連れが多く、子供でも摘み取れるが、結構手間がかかる。海外の大規模農場では機械で摘むが、小豆島では一つひとつ丁寧に手で摘み取り、高品質のオリーブを出荷している。オリーブの実は柔らかく、傷が付くとそこから酸化し、食用でもオイル用でも品質が落ちてしまうからだ▼次に七種類ほどの塩漬けオリーブを味見。実の大きさや味わいが微妙に違う。で、生のオリーブはどんな味なのだろうとかじってみたら、とんでもない渋さ。広場では、オリーブオイルを使った化粧品やオリーブの木のクラフト、王冠作りなど、地元の人たちがテントの中でいろいろなオリーブの楽しみ方を紹介していた▼小豆島は来年オリーブ植栽百年を迎え、オリーブ百年祭を行う。一九〇八年に農商務省が三重、香川、鹿児島の三県で米国から輸入した苗木の試作を始め、小豆島だけが栽培に成功した。以後、岡山、広島などにも広がる、一九五九年の輸入自由化により安価な外国産のオリーブ製品が大量に輸入されるようになって国内の栽培は急速に減少し、現在では香川県と岡山県の一部で生産されているにすぎない。地元JAでは、百年祭を機に、小豆島での栽培面積の拡大を目指している。



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